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都市と自然のバランスから自給率問題を見る
ここのところこのブログでは食料自給率の問題について数字や計算を出すことが多かったので今回は算数なしで書きたいと思います。
まず今回は、自然とは何かという問いから。
答えは、けっこういろいろあると思います。
オンラインの辞書には「山や川、草、木など、人間と人間の手の加わったものを除いた、この世のあらゆるもの」とありました。

「人間」のどこまでを自然に含めるかは意見が分かれるところかもしれません。
僕は養老孟司氏の考え方に大きく影響を受けたようで、人間の肉体までも自然のひとつとする見方が好きです。
そして養老氏がよく使われる、「脳のはたらき」→「人工」に対してそうでないものを「自然」とする分け方が、自然の定義としてとても明瞭ではないかと思っています。

*参考 唯脳論 http://ja.wikipedia.org/wiki/唯脳論
 “すべての人工物の仕組みは脳の仕組みを投影したものである。人は己の意のままにならぬ自然から開放されるために人工物で世界を覆おうとする。そのようにしてできた世界が脳化社会である。”

この定義でいくと人は「自然」と絶対縁が切れません。
誰でも自分の身体を持っていますから。
人工物に囲まれた都市の真ん中に住んでいても、本物の「自然」である自分の肉体が一番近くにある。
逆に「自然」を求め田舎へ行っても、実は自然のように見える人工物ばかりということも現在は多いですけど。
人が暮らす場所にはどこでも「自然」と「自然でないもの」は同居し複雑に入り組んでいます。

ここで「自然」の重要な性質ですが、それは人が何もしなくても勝手に生まれ育ちそして消滅していくことです。
もちろん人は手を加え、その自然が生きる場を作ることはできます。
農業でも、機械で耕し、化学的に合成された肥料を施し、温めたり水をあげたりといろいろ作物が育つ場を整えることはできます。

しかし芽を出し成長するのは自然の力です。
最先端の管理を行っても、どんなに巨大になってもこの自然の力を借りないわけにはいきません。
そのことを、もう一度人々は表面的にではなく本当に認める必要があるかもしれません。

人類がここまで繁栄できたのは、この大いなる力を味方につけるために努力し続けてきたからだと僕は思います。
時に怖れ崇めながら。
それが何時からか、全面的に排除する方向となってしまった・・・

都市開発はその際立ったものでしょう。
生き物の住処である土がコンクリートで隠されて行きました。

現在、行き過ぎたこの都市化をさまざまな問題の原因に考える人は増えています。
でもどこから手をつけて行けば良いのでしょう?

都市は本来、他所から必要なものを持ってくることで成り立っています。
最近ここで取り上げている食料自給率の問題ですが、都市の自給率は低くて当たり前なのです。
今回は数字を載せないつもりでしたけどひとつだけ。

1%

巨大都市東京の食自給率です。
あれだけ人が多い東京がこの数字ですから平均値は下がりますよね。

今、国の行政は食料自給率の問題に対して国全体の平均値を使って取り組んでいますが、僕はもっともっと地方分散型で扱う問題なのではと感じています。
仲間外れは普通よくないですけど、まずは東京抜きで地方ごとに食料問題を考え、地域内での食と経済の循環など地元の底力を上げる試みを行った方が、結局は東京のためにも日本のためにも良いのではと思うのですが、いかがでしょう?
やりやすい所から始めることは方法として悪くないはず。
地方都市くらいの消費地とそのまわりの生産地でバランスを考えた方が、より現実的で効果的な策が出てくるのではと思うのです。

その際、土台となるべき考え方は自然との共生でしょう。自然の力を味方にする。
そのためには自然からの声もしっかり聴かなければなりません。
モデルは身近にもあります。
自分の一番近くにある「自然」が発している声を無視して無理をするとやっぱり身体をこわしたりします。

yasu

PS
年明けに喜多方市の市長選があります。
この山都町など自然が豊富に残る山間地も市に合併したわけですが、僕は都市と自然の新しい関係を考えてくれる人が出てくれることを願います。
| yasu | 15:15 | comments(0) | - | pookmark |
自給率の中にあるもの (2)
今回も引き続き食料自給率に関することをテーマにします。
再度確認しておきますが、ここでこうして取り上げるのは、この数字を冷静に見直しそこに含まれている内容を考えてみる意義がとてもあると思うからです。

良いか悪いかの答えを急ぐ前に、なぜこういう数字になるのかを細かく見てみる。
その作業は、私たちの現在の暮らし方を見直す機会にもなります。
たとえすぐ変えることができなくても、今まで意識せずに行っていたことが何と繋がっていたのかを知ることは、将来の展開に影響を与えるはずです。きっと良い方向へ・・・

さて、そのような趣旨であらためて注目したいことは、農水省が出している食自給率が畜産に使われる飼料の自給率も含めて求められた数字だという点です。

例えば国産牛肉の量が、輸入牛肉も含めた総量のAパーセントあったとしても、この数字がそのまま牛肉の自給率には使われません。
牛を育てるのに使われた餌の自給率がかかってきます。
飼料の自給率がBパーセントだとすれば、A×Bが牛肉の自給率となるのです。

日本は飼料の多くを輸入に頼っています。
そのためこうして算出すると畜産物の自給率は低くなります。
国産牛肉は40%前後ですが、飼料自給率を考慮した牛肉の自給率は10%程度に。
*参考 http://www.seikatsuclub.coop/activity/20090526.html

このことが現在の日本の食料自給率が低い原因のひとつです。

農水省のこの食自給率の出し方には批判的な意見もあります。
算出方法より、畜産物の自給率の低さだけが消費者に伝わってしまい、そのため売る方は”国産品”とアピールしたりも。

だけど僕としては、せっかくこういう数字が出ているのだから、肉食の効率についても考えて欲しいと思います。
牛肉100グラムつくるために2tの水が必要なことを以前書きました
エネルギ効率を単純に考えた場合、肉食は効率が良くありません。
もちろんここで僕は、だから肉食を止めようと極端なことを言いたいのではありませんが。

例えば、牛肉1キロをつくるために10キロの穀物が必要ということなどを、もっと多くの人に知ってもらいたいのです。
さらに、世界には全ての人々が食べる分の食料があるのに地球上では今4秒に1人が飢餓のために亡くなっている事実も。

日本へ飼料としてとうもろこしを大量に輸出しているアルゼンチンでは、1000万人が飢餓にあえいでいるそうです。

*参考
 http://ja.wikipedia.org/wiki/食糧問題
 http://www.nikusyoku.com/kiga/fact/02.html

そういうことを考えると、畜産物はすごい贅沢品です。それなりの気持ちで食べるべきものだと思います。

自給率が低いということは、別の国で誰かが作った食料にお世話になっているということです。
自給率の低さが問題になり、人々は自分たちの食料確保ばかり心配しています。
でもその前に、作っている人たちは十分食べるものを確保できているのか、私たちのためにその人たちが迷惑を被っていないかを心配しなければならないのでは?

美味しいものを食べた時の喜びは、人の幸せのためにあります。
自分の食事の喜びが、他人の不幸の上にあってはいけない。
美味しいという喜びが全ての人の幸せにもなることを目指したいものです。

ちゃんと人には、後ろめたさという気持ちがついてます。
お腹をすかした人の前で自分だけ食事を楽しむなんてことは誰もできないはず。
地球に住む全ての人々のこと、これから生まれてくる人々のこともちゃんと考えて、もう少しうまく食べ物を分け合うことができないものでしょうか・・・

yasu

PS
僕は畜産そのものを批判的に扱いたいわけでもありません。
畜産のやり方やあり方を問題にしたいのです。それは農業に関してと同じです。
畜産にかかわっている人々は厳しい状況に置かれています。
その痛みを消費者も分かち合いながら、現在の畜産物の大量消費は考え直す必要があるのではないかと僕は思うのです。
| yasu | 15:50 | comments(0) | - | pookmark |
自給率の中にあるもの
ここ数年の行政が音頭を取る食料自給率向上運動に、僕は少し疑問も感じることを前回書きました。
自給率向上を絶対善とする風潮を批判した記事も最近ネットや雑誌で増えています。
大手メディアから流れる(広告代にいくらかけているのか・・)「自給率UP!」と、ネットなどから流れる「自給率UPの一番の目的は農水省の予算確保」という声。
そのような状況で、私たちは国が出している自給率を低いからとただ不安に感じるのではなく、この数字を深く読み取る必要があると思います。そしてここでも冷静さとバランスが大切になるはずです。

食糧問題は国レベルの重要な問題ですが、地域レベルの問題でもあり、家族レベルの問題でもあり、そして突詰めれば自分の食べるものをどうするかという個人レベルの問題でもあります。

現在、山間地の村落で自給自足的な暮らしを探っている僕としては個人的に言いたいことがいろいろあります。
でもそれらはまだ個人レベルの胃袋や財布の問題であることが多いのでなるべく別のブログで書くことにし、このブログではがんばって大きなレベルの話を取り上げたいと思ってます。
批判のための批判で終わらないように注意しながら。


さて、農水省がカロリーベースの自給率を使っている点を僕は一応評価します。(省益のために一番低い値が出る方法を採用しているという見方もあります。これまでの役人の無駄使いがありますから、こういう意地悪な見方も忘れてはいけないでしょう。)
それはこの計算で使うデータに、環境問題など他の社会問題とつながる数値も含まれており、こういう数字が見えれば私たちの暮らし方をあらためて考え直す機会になると思うからです。

まず確認としてカロリーベースの食料自給率の求め方を書いておきます。

カロリーベースですから作物は熱量に換算されます。
ダイエットでお馴染みのカロリー計算ですね。
例えば米なら100g当たり350kcal前後(農水省が実際使っている数字は見つけられませんでしたがこんな感じでしょう)。

全品目を熱量に直し、それぞれの供給量をかけて合計を求める。
基準になるのは、国産も輸入も合わせた総供給熱量。
これに対して国産の熱量が何割くらいあるのかを求めたのがカロリーベースの食料自給率です。
(それぞれの供給熱量は1人1日当たりの量にしてから計算)

食料自給率(カロリーベース)=国民1人1日当たりの国産熱量/国民1人1日当たりの総供給熱量

08年度の総供給熱量は2473kcalで、そのうち国産熱量が1012kcal

1012/2473≒0.41 41パーセントとなりました。
この数字が一般にニュースで流れる日本の食自給率です。

ここで分母の総供給熱量に注目です。この量は「供給」であり、摂取した熱量ではありません。
国民1人が1日に実際摂取した熱量は平均1898kcal(07年度)とのこと。

この熱量を基にしますと、つまり実際食べた物の自給率を求めると
1012/1898≒0.53 53パーセントに上がります。

この供給熱量と摂取熱量の差は何か?

その大部分は廃棄される食料の熱量です。
日本では年間約1900万トンの食品を廃棄しています。

*参考 http://www.maff.go.jp/sogo_shokuryo/data/01seisaku/5shiryou/bunkakai3/recycle_genjou.htm


これは日本が輸入している食糧5800万トンの1/3の重さにあたります。
また現在の世界の食糧援助量が740万トンと言われますから、日本が棄てる食料で餓えに苦しむ人を何人救うことができるのか・・・

このあたりからも食料自給率の低さが生産の問題だけでなく、消費方法や分配方法の問題であることがわかります。
便利さや表面の効率ばかりを追い求める生活様式が大きく関わっているのです。

その社会の犠牲になっている人々がいます。犠牲になった地域や自然環境もある。
もし自給率upの声がそういうところから出てきているのなら僕は全面的に支持したいです。
しかし権力側からの声が目立っている。
それで少し気になるのです・・・

yasu
| yasu | 15:32 | comments(0) | - | pookmark |
「食べ物」を考える
秋も後半に入りました。
収穫の季節、そして食欲の秋でもあるので今回は「食」の話を。
最近、文化人類学者であり言語学者でもある西江雅之氏の著作『「食」の課外授業(平凡社新書 2005年)』を読んでみました。
この本では文化人類学の視点から捉えた人と食の関係が論じられています。
文化人類学での「文化」には、ある社会で高い位置に置かれている「とても文化的な」活動も、逆に低く扱われている野蛮な行ないも区別無く、人のやること全てが入ります。常識ある人が普段取り上げないタブーも含める。
タブーも除かず全部入れてひとまとめにし、その外側に立ってあらためて考える姿勢。
文化人類学者だけでなく、物事をよりよく知るためにはそういう姿勢が大切でしょう。
やさしい文章の中に結構過激なことも書かれているこの本を面白く読ませてもらいました。

「食べ物」は「食べられる物」のほんの一部であると西江氏は言います。
あるひとつの社会や文化は、食べるのにふさわしい「食べ物」を選択している。
地球上には昆虫を食べる文化もあるし、鯨を食べる文化もある。一方そういうものが食べ物ではない文化もあります。
ヒンドゥー教徒は牛肉を食べないし、イスラム教徒は豚肉を食べません。
ここで、生物としての人間は誰でもこれらの物を食べることができます。毒ではありません。
しかしその人の属している文化がそれを「食べ物」と認めていないために食べることができないのです。
または食べるとゲテモノ食いになったり、人としてふさわしくないものを食べているとその社会で見なされるのです。

西江氏は「欲」と「欲望」も分けています。
食についての「欲」は「食欲」です。身体的な面に結びついたもの。
とにかくお腹を満たすために食べる時はこちらが優先ですね。
そして人間の胃袋の大きさは大きな人でもたかがしれてます。だから純粋な「食欲」はそんなに馬鹿でかいものではないでしょう。縄文時代の人と現代人を比べてもそれほど違わないと思います。

一方「欲望」は人間の想像力に関わるもので、「どのような」食べ物でそれが「どのように」あるのかなどが関係してきます。
時代や地域でとても違うし、お金持ちと一般庶民でもすごく差があります。
「欲望」はいくらでも大きくなり、食に関する欲望が人を動かし集団を動かし世界の歴史を変えた例がいくつもある。

こうして見ると「食べ物」の問題は人類だけが持つ問題です。
さらに、それは胃袋の問題というより脳の問題になります。

もちろん人が欲望を持つこと自体は、良い悪いといった問題ではありません。
また食べ物を限定するそれぞれの文化に優劣をつけることもできません。
そういう「人間らしさ」は大切にされるべきだと思いますし、その上で人類に不利益になる欲望の暴走には注意するべきでしょう。


ここで少し話を変えますが、食自給率を向上させようという運動がここ数年高まっています。
日本の食自給率が(カロリーベースで)4割ほどということは、いつの間にか大人なら知っているべき常識のようになりました。

化石燃料の消費を減らすためや、地方が本当に自立するためには地産地消が大切だと思うので、自給率の向上を目指すことに僕は基本的には賛成です。

しかし自給率向上と一番声を大きくしているところが国の行政側というのが気になっています。
また、この問題は単に生産量を上げればよいというものでもないし、農業従事者を増やせばよいというものでもないのでは?

僕が考え直すべきだと思うところは、分業化が行き着くところまで進みお金が全てになってしまった今の暮らし方です。そこを考えないで食自給率のアップを目指してもますます暮らし難い世の中になってしまうのではないでしょうか?

今、この国の人々の欲望を全て自給しようとしたらどのくらいのエネルギーが必要なのか?
この狭い国で、環境にこれ以上負荷を与えずそんなことができるとは思えません。それとも実は、限られた人たちの欲望を自給することが目標なのか…

yasu
| yasu | 18:45 | comments(1) | - | pookmark |
第14回国際交流フェスティバルのお知らせ
11月1日(日)に今年で第14回となる国際交流フェスティバルが会津アピオスペースで開催されます。
今回のテーマは「世界の【あい】をひろげてみませんか?」

当日は各国の代表的な料理が大集合!
マイハシ・マイカップ・マイプレートを持って本場の料理を食べに行きましょう。

詳しくは
http://awia.jp/ja/fine1.html

| yasu | 09:06 | comments(0) | - | pookmark |
VSが付くドラマで得をするのは誰?
「戦争」の反対語は何でしょう?
まず「平和」という言葉が浮かぶかもしれません。でも「戦争」は手段で「平和」は状態を表す言葉ですから、この2つを対にはできませんね。

戦争は問題を武力で解決しようとします。
では、武力を使わないで解決する方法は?

両者が向かい合って話し合うしかないでしょう。
「対話」が「戦争」の反対語であるという考えに僕も同感です。
もちろん平和を守るためには、戦争を無くさなければなりません。
だから問題の解決手段にお互い「対話」を選ぶべきです。

これは国と国の問題に対してだけではありません。
国内のさまざまな問題に対しても、問答無用と力で解決を図るのではなく、十分話し合う努力をしていくべきでしょう。
それは時間がかかるかもしれないし、面倒なことかもしれません。
テレビのエンターテインメント番組には向かないかもしれないし、お金がもうかることではないかも。

しかしそれでも、平和な社会を実現するために私たちは根気よく話し合いの道を選んでいくべきです。

このブログでは、ここのところジャーナリズムやマスコミに関する問題を取り上げています。
僕は、世の中に「対話」を増やしていくのもジャーナリズムの仕事の一つではないかと考えます。
現実は残念ながら「対立」を煽るような報道が多いような気がしますが・・・

先月後半、八ッ場ダム建設中止に関するテレビの報道を僕もいくつか見ました。
どれも民主党政権vs地元住民という構図で流されてましたし、どちらかというと中止に反対する住民代表の悲痛の声が印象に残りました。なんか前原国交相は悪役といった感じでした。
それが最近、「地元住民代表」が実は自民党系議員や元議員だったという話で、今度は逆に住民バッシングの動きも起きているようです。

対立の構造は、確かに人々の興味をそそります。
時代劇に出てくるような正義を好む人も、まだたくさんいるのかもしれません
しかしこうした報道の影で見え難くなっているものが本当は重要ではないのか?

もともと住民は団結し八ッ場ダム建設に反対してました。
長い年月をかけてその地元コミュニティを壊してきたのは誰なのか?
そして今までかかった莫大なお金のかなりの部分を使っていたのは誰?
(こちらも参考 八ッ場ダム関連に国交省176人天下り http://www.the-journal.jp/contents/takano/2009/09/176.html

大手メディアにもこういう情報をしっかり流してもらいたいですけど、大きいところがその報道姿勢をすぐ変えられるとは思えません。地道な草の根運動がまだまだ大切でしょう。

yasu

*参考 八ッ場ダム 本当の悪代官は誰だ?http://kenken55chiba.blog54.fc2.com/blog-entry-74.html

PS
岡田外相が9月29日から記者会見をオープンにしました。早速、フリーの記者がするどい質問をしてスクープが出たりと開放の効果が現れているようです。

 田中龍作ジャーナル 記者会見開放の効果、フリー記者がスクープ 
http://tanakaryusaku.seesaa.net/article/129190111.html
| yasu | 15:12 | comments(0) | - | pookmark |
客観報道を客観視したい
このブログには「新聞」という名前がついていますが、新聞などマスメディアが出す情報をどう読むべきか考えることは、このブログが扱う大切なテーマのひとつです。
前回は記者クラブについて取り上げました。
民主党は総選挙前に言った通り、この独占的な情報の受け渡し制度を変えることができるのか?
より多くの人に関心をもってもらいたい問題です。

ここで、ジャーナリズムに関する問題の責任は、報道する側だけでなく、私たち受け手側にもあると僕は思います。
”国民はその国民にふさわしい政府しか持つことが出来ない。”
この言葉の「政府」は、「新聞」や「マスメディア」「ジャーナリズム」にも置き換えることができるでしょう。
僕自身もっと知らなくてはと反省する次第です。
いつもの通り、この問題に関しても僕は素人ですが、この場を借りて、自分なりに調べたことや考えたことを皆さんと共有できればと思います。

さて、今回あげますキーワードは「客観報道」。
大まかな定義は、記者の主観を入れずありのままに伝えること。
報道機関が守るべき基本姿勢として社会に受け入れられている概念だと思います。

そんな当然に思われる原則も、厳密な定義を問うと実は曖昧です。
「客観報道」は幻想に過ぎないという声も。
記事は記者の手により書かれるのですから、そもそも記者の主観が全く入らないということは不可能かもしれません。
また、「客観報道」主義と「記者クラブ」の負の面が合わさって生まれたのが、今の日本の「発表ジャーナリズム」だという批判もあります。
「−署の調べによると」「−省の調査では」のような書き出しで始められる記事は「発表モノ」とも呼ばれます。そういう記事がニュース全体の8割以上を占めるとのこと。
 http://www.socius.jp/lec/12.html

警察、官庁、政府などが発表したものをそのまま伝えているのですから、確かに「客観的」ではありますね。
しかしここで見逃していけない点は、それらの報道は発表した側の広報活動にもなっていることです。
各メディアは視聴率を上げるようにがんばることでしょう。多くの人に見てもらおうとします。
つまり権力側の宣伝に力を入れることになるのです。

もちろんどういう公式発言があったかという情報は大切です。
そのレベルでは、客観報道の原則は最低限守られるべきです。

問題は、受け手である私たちが、それを読んだり見たりするだけで終わっていいのかということ。
発言があったこと(そういう情報が記者クラブを通して受け渡されたこと)自体は事実でも、その内容や判断が事実に基づいて正当であるという保証はどこにもありません。

私たちが突詰めていくべき事柄はいくつもあるのです。

そういう私たちの疑問を、私たちに代わって聞いてくれる。
さらに私たちが見逃している問題点を引き出してくれる。
それがジャーナリストの仕事ではないでしょうか?

最初に書きましたが、日本のジャーナリズムの質が低いとしたら、その責任は受け手側にもあると僕は思います。
責任があるから、ただ反省するべきだという意味ではなく、私たちが変えていける部分もあるという前向きな意味でです。

yasu

参考 
 http://ja.wikipedia.org/wiki/報道
 http://e-lib.lib.musashi.ac.jp/2006/Elib/S5/008/001.html#a1
| yasu | 12:48 | comments(0) | - | pookmark |
脱記者クラブはどうなる?
記者クラブのような組織は、日本以外では一般的でないため英語ではkisha clubとそのまま表記するそうです。
その閉鎖性は、これまで内外から批判されてきました。
 参照 http://ja.wikipedia.org/wiki/記者クラブ

政権を取ったら会見はオープンにすると言っていた民主党。

しかし16日の鳩山首相就任記者会見では、開放が実現されず、従来通り大手メディア主導で行われました。

時間的に余裕が無く、先手を打てなかったからか?
それともまだまだ官僚制の力に支配されているのか?

当日、外国メディアや雑誌メディアは限定的に出席が認められましたが、ネットメディアの出席はなし。
このことについて
"「記者クラブの既得権を守りネットメディアを排除する鳩山政権」というイメージが広がってしまったダメージは小さくない。"と池田信夫氏は書いています。
 「記者クラブ閉め出し騒動」に見る民主党のお粗末な情報管理 Newsweek日本版 9月17日 
  http://newsweekjapan.jp/column/ikeda/2009/09/post-61.php


また、オープンな会見が"脱官僚の入り口"と語るのはフリージャーナリストの上杉隆氏。
今回の記者会見で、上杉氏は官邸の外でした。
"記者クラブに限定した会見が、官僚とメディアの馴れ合いを生み、メディアは官僚に都合がいいように利用されてきた。その体質から脱却することが、脱官僚の入り口なんです。"
鳩山内閣早くも公約違反? 隠れた官僚支配の温床壊せず 日経ビジネスオンライン
  http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20090916/204933/?P=1


この後、18日、岡田克也外相が外務省の記者会見について「原則としてすべてのメディアに開放する」との発言。
毎日新聞 9月19日 
  http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090919ddm041010098000c.html


今後の脱記者クラブへ向けての動きと、そして当事者である大手メディア(今まで記者クラブの恩恵を受けてきた)がこの問題をどう報道するか、注目しましょう。

yasu
| yasu | 16:00 | comments(0) | - | pookmark |
写真は平気でウソをつく
「写真は見たままの現実を写しとるものだと信じられているが、そうした私たちの信念につけ込んで写真は平気でウソをつくということに気づかねばならない」
写真家 W・ユージン・スミスの言葉です。

参考 http://ja.wikipedia.org/wiki/ユージン・スミス

彼の写真には、漂白・重ね焼き・トリミングといった技法が駆使されています。カメラという機械が捕らえた光だけではなく、意図的に作られた光や影が入っている。
それらを「ウソ」「演出」と言うこともできるでしょう。

しかし、時に「ウソ」が「真実」を表すことを私たちはしっかり気付いています。
私たちは作り話や絵画に感動したり、励まされたりするではありませんか。

ウソの中に本物があり、本物らしく見えるものにウソがあるから世の中複雑です。
でもその騙し合いが世界から今すぐ無くなるとは、とても思えません。
稲にぴったりくっついて、人に気付かれないよう似たような姿で育っているヒエを見るたびに残念ながら僕はそう思います。

だけど騙し合いが人類の悲劇と結びつくことだけは、もういい加減止めなければ。

そのためにも私たちはしっかり見なければなりません。写真の奥のものを。

yasu


* W・ユージン・スミスの写真展が今月12日から喜多方市美術館で開かれます。

会期中展示替えあり
  前期 9月12日−10月4日
  後期 10月6日−10月25日
  詳しくは http://www.city.kitakata.fukushima.jp/bijyutsukan/tenji.html
| yasu | 10:53 | comments(1) | - | pookmark |
単なる交代で終わらないで欲しい
民主党の圧勝でした。
まあ、新聞やテレビがあれだけ民主党勝利の予想を報道してましたから、歴史的な結果に驚くより「やっぱり」と感じた人の方が多いのではないでしょうか?

一方、このブログにも取り上げました最高裁裁判官国民審査。
こちらも「やっぱり」の結果ですかね…
インターネット上では罷免を求める運動が盛り上がっていましたが、終わってみると”ほぼ前回並みの”罷免率で9人全員が信任されました。
 * http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090831dde007010028000c.html


さて今度の政権交代で、社会はより良い方向に変わっていくことができるのか?

今回、民主党を選んだ日本社会が、根本的なところで何も変わっていないのではという不安もあります。
以下、田原総一朗氏のコラムから引用します。
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20090903/178774/

”この民主党の勝ち過ぎに逆に不安が残る。気持ちが悪い。
 日本人はどうも一辺倒だ。一辺倒であることが問題であると思うが、それが出てきたのかと。
 私は古い世代だが、戦争中は戦争一辺倒だった。戦争に負けると、今度は平和一辺倒になった。”
 
”4年前、小泉さんが郵政民営化を掲げて、自民党が約300議席を取った。
 そして「今度は政権交代だ」と、民主党が308議席を取ってしまった。
 この一辺倒さは決して健全とは思えない。”

多くの人々が、深く考えず、その時流行っているものに安易に乗ってしまう。
そんな行動パターンが、この社会で依然として続いている感じもします。

単なる交代で終わらないことを願います。

yasu
| yasu | 12:58 | comments(0) | - | pookmark |

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